'70 アテンションプリーズ研究



1970年(昭和45年)時代背景

〜航空事情〜




成田空港の建設予定地では火炎瓶が飛び交っている頃、

羽田空港は慢性的な混雑に悩まされていた。

羽田空港の歴史上、最も混在した月として記録されるのが1970年8月である。



大阪万博開催中の夏休み。

万博への国際線チャーター便、国内線の臨時便が飛びまくり、

「日本の空は大渋滞」とニュースや新聞で連日扱われた。



羽田の駐機場はいつも満杯、

貨物は保税倉庫に入りきらず駐機場にまでハミ出す。

上空では着陸の順番待ちで飛行機の大行列、

羽田へ着陸するために旋回(ホールディング)して待機する航空機は常時10機以上、

しまいにはホールディングコースも満杯になる始末・・・








1970年8月、大阪万博増便に台風避難便が追い打ちで駐機場は超満杯。
羽田の展望デッキも観光地化しており大混雑。




夏休み、大阪万博の真っただ中にも関わらず、

とうとう羽田発着便の減便が航空各社へ要請されることとなり

全日空は数便が自衛隊の厚木飛行場を使用することに・・・

この時期の羽田発着便は1時間くらいの遅延は当たり前、

ひどい便になると3時間以上の遅延という状態。

土日ともなれば1時間以上遅延する便がなんと全体の90%にも及んでいた。

管制官もパイロットも頭を抱えていたに違いない。



そして極めつけはアテンションブリーズ放送開始前の週末に起こる。

大阪21時発 東京着22時予定の日航機が羽田に降りたのは なんと午前1時。

宮崎発羽田行の全日空機はホールディングを続けたあげくに

羽田空港の混雑が原因で着陸できず、名古屋へ向かうことに・・・

代替空港へ向かうのは悪天候や事故などの時、

それが混雑で着陸できずに代替空港へ向かうとは前代未聞である。



パイロット「もう燃料がもたないのですが、着陸の順番は何番目ですか?

      あとどれくらい待ちますか?」

管制官  「そうですね、15番目くらいになので1時間ちょいってところですかね」

パイロット「・・・・・」

そして客席に機長のアナウンスが入る



機長「えー、こちらは機長です。お客様にお知らせいたします、

   本日、羽田の混雑がひどく、着陸できないので名古屋に向かいます」

乗客「・・・・・」

というやりとりがあったかどうかは定かではないが

混雑にもホドがあるだろっ!と突っ込みたくなる1970年の日本の空であった。

ちなみに日本航空はこの年、過去最高の利益を上げている。





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2007.5.19